作曲

おれは去年の秋から今年の春頃まで、作曲を習っていた。
芸大和声*1の一巻までは終わったけど、そのあと先生の都合でレッスンが出来なくなり、うやむやになってしまった。
まぁその前におれが遅刻しまくったってことがある。「遅刻する→怒られる→萎える→行く気がなくなる→また遅刻する」っていう悪循環におもいっきり陥ってた。


たぶん最初の何回かで相性というか、気まずさが決まっちゃうんだよな。
おれは初回から遅刻して*2、いきなり気まずかった。
その次か次々回では課題に習ったことも習ってないことも書いたら注意された。「やってないことはやるな」的な。
まぁたぶんそれが決定的だったと思うけど、もうやる気がなくなって、課題は家を出る前にやるようになった。
それで遅刻しないはずがなく、上に書いた悪循環にはまっていった。
まぁレッスン中断したのは賢明だったのかもしれないね。
先生もおれみたいな生徒は苦手だったんじゃないかな。ぶっちゃけ迷惑な生徒だったし。


和声法との相性も悪かったような気もする。
おれは今では「和声法を学ぶより、センスを鍛えるほうがいい」と思っている。
作曲を生半可に学んだことで、和声法の無意味さというかな、あんなのは飾りなんじゃないかと思うようになってしまった。
モーツァルトの音の使い方を身につけたところでモーツァルトになれるわけじゃない。むしろ、モーツァルトの曲が作れたって嬉しくはない。*3
だからおれはまともな「音楽」の道からは外れてしまったわけだ。


連続平行五度のカノン(「ピアノのための二つの行列」)を書いたのも、古典作曲法の縛りに個人的に対抗しようとしたからだし。
ただ、無駄に並達八度が気になるようになってしまったのが悲しい。


なんで昔の人は連続五度をいやがったんだろうね。そして、なんでいまの人は連続五度の良さを知った上でそれに従ってるんだろう。
アルカン*4の独奏交響曲メヌエットに連続五度出てくるけど、古典的な曲のなかでもああいう使い方をするときは許されるべきだと思う。


それでもおれは作曲を続けてるんだから、相当好きなんだろうね。
やっぱり、自分で作った曲を持っていって、その変なところを指摘してもらったほうがよかったのかもしれない。
超大変だろうから、そんな教えかたをする人はいないと思うけど。


やっぱ実践とかけ離れた理論は好きじゃないな。*5
和声を学んだからって作曲が出来るとは限らないな。逆も真。


あー、なんか負け犬の遠吠えっぽくなってきたな。

*1:いちばん有名な和声法のテキストで、三巻になってるやつだけど、この呼び方でいいのかは謎

*2:言い訳だけど、初回は本当に具合が悪かった

*3:個人的にはアルカンの和声法をマスターするほうがうれしいし

*4:最近はアルカンに洗脳されてるなぁ。知らない人はMIDIを探すといいと思う

*5:数学の理論は理論を学んですぐ実践に入るところがいい